いや~、茹だるような暑さとはこのことだ。エアコンなしでは一分たりともいられない。
そんな中、いつも懇意にしているショップのNさんが修理の完了したアンプを持ってきて下さった。
二人して、汗を掻きかきセッティング。
収まるべきところに収まって見た目もグッド。
出てきた音はすっかり以前のキレのある音に。左右の音量差があったときは左右バランスつまみで調整していたが全体的な音量は低下していた。よってメインのボリュームを11時くらいにしないとならなかったが、久しぶりに聴くそれは9時くらいで十分な音量であって、なんだか頼もしい感じ。
音像もちゃんとセンターに定位している。ありがとうございました。
修理中、中国製のデジアンを使っていたことは以前にも書いた。このデジアンしか知らないのであればこれでも十分な音がするが、上から下までスッキリした感じでやっぱり現代風の音。マッキントッシュさんたちの音を聴いてしまうとね。やっぱり。
出てくる音に余裕があるし、全体に濃密。なによりもダンピングの効いた粘りのある低音が堪らんです。ハイ。
そうそう、この音に惚れちゃったんだってことを再認識。
今回の修理で交換していただいた部品は40点あまり。リフレッシュしてきたMC2255。なんだかとっても快活でキビキビした印象。それに細かいところがよく聴こえるようになった。もう少し艶やかさとフォーカスの合った音になれば良いかな。この辺りはもう少し鳴らし込みが必要なのだろう。
楽しみ。
2016年7月31日日曜日
2016年7月30日土曜日
音楽への愛情は・・・ Tchaikovsky Sym.4-6の場合
いつも拝見している、ばけぺんさんのブログに組み物のCDで曲が2枚に跨ってしまうことについてコメントさせていただいた。
どういうことかというと、よくある例としてはチャイコフスキーの後期3大交響曲集。あとはラフマニノフの交響曲全集とか。あとマーラー全集なんかでもよく見受けられる。ハハ~ン、と納得いただけたかな?
チャイコの場合、だいたいDisc1に第4番全曲と第5番の1,2楽章、Disc2に第5番の3,4楽章と第6番全曲という具合。以前から5番を聴く際に一々ディスクを取り換える作業が面倒で気に障って仕方がない。手元にある後期3大の2枚組CD5種類のうち3種類で5番が犠牲に。残り2種類はそれぞれ4番と6番が犠牲になっている。収録時間の都合で致し方ないといえばそうなのかもしれない。
けれども、曲を途中で楽章の切れ目とは言えぶった切るのはどうなのさ。
七味はそこに作り手の曲や音楽に対する愛情の欠如を感じるのだな。もし本当に音楽が好きならそんなことできないはずだよ。
買う方もそんなディスクは買ってはいけません。そんなディスクを買うということはやっぱりその曲、音楽に愛情を感じていないってことになるんじゃないですか? (伊丹十三 風に)
な~んて、ね。
じゃあ、同じ演奏のディスクで、ぶった切られていない3枚組とぶった切られてる2枚組があるとして、価格はもちろん2枚組のほうが安いとしてどっちを選ぶかって話ですよね。LPみたいに詰め込むと音質に影響するっていうんなら3枚組でしょうが、CD関係ないもんね。やっぱり安い方買います。でもぶった切られディスク、あんまり聴かないのも事実。音楽に魅力があってもやっぱり商品としてはどうなのってことなのか。チャイ5を聴くときは自然と1枚もの、もしくは全集の中から手に取ることが多いかな。
じゃあ、CDにはどれくらい詰め込めるのだろうか。昔むかし、小澤征爾のマラ8のCDを買った。CDが出始めの頃で6000円だか6600円くらいした。2枚組でDisc1には第1部、Disc2には第2部を収録。で、何年後かに廉価シリーズで再発売。その時は1枚になっていた。2000円くらい。なーんだ、入るんじゃん!と思った。今考えると当時はLPの収録に準拠した格好だったのだろうと思う。今ではマラ8は1枚がフツーになった。CDの収録時間も74分と初めの頃は言われて、それ以上収録すると再生できない場合があるという噂があったような、ないような。現在では80分くらいは入りそうだけれど。どうなのだろう。
LPの時代もCDの時代も詰め込みは廉価盤の常。収録時間が増えたからといって矢鱈めったらくっ付けるのも品がない。クライバーが存命の時、彼は絶対に詰め込ませなかった。だからベートーヴェンの5番と7番が収録されたディスクが出たのは彼が亡くなってからだった、と思う。ちょっと自信ないケド。
どういうことかというと、よくある例としてはチャイコフスキーの後期3大交響曲集。あとはラフマニノフの交響曲全集とか。あとマーラー全集なんかでもよく見受けられる。ハハ~ン、と納得いただけたかな?
チャイコの場合、だいたいDisc1に第4番全曲と第5番の1,2楽章、Disc2に第5番の3,4楽章と第6番全曲という具合。以前から5番を聴く際に一々ディスクを取り換える作業が面倒で気に障って仕方がない。手元にある後期3大の2枚組CD5種類のうち3種類で5番が犠牲に。残り2種類はそれぞれ4番と6番が犠牲になっている。収録時間の都合で致し方ないといえばそうなのかもしれない。
けれども、曲を途中で楽章の切れ目とは言えぶった切るのはどうなのさ。
七味はそこに作り手の曲や音楽に対する愛情の欠如を感じるのだな。もし本当に音楽が好きならそんなことできないはずだよ。
買う方もそんなディスクは買ってはいけません。そんなディスクを買うということはやっぱりその曲、音楽に愛情を感じていないってことになるんじゃないですか? (伊丹十三 風に)
な~んて、ね。
じゃあ、同じ演奏のディスクで、ぶった切られていない3枚組とぶった切られてる2枚組があるとして、価格はもちろん2枚組のほうが安いとしてどっちを選ぶかって話ですよね。LPみたいに詰め込むと音質に影響するっていうんなら3枚組でしょうが、CD関係ないもんね。やっぱり安い方買います。でもぶった切られディスク、あんまり聴かないのも事実。音楽に魅力があってもやっぱり商品としてはどうなのってことなのか。チャイ5を聴くときは自然と1枚もの、もしくは全集の中から手に取ることが多いかな。
じゃあ、CDにはどれくらい詰め込めるのだろうか。昔むかし、小澤征爾のマラ8のCDを買った。CDが出始めの頃で6000円だか6600円くらいした。2枚組でDisc1には第1部、Disc2には第2部を収録。で、何年後かに廉価シリーズで再発売。その時は1枚になっていた。2000円くらい。なーんだ、入るんじゃん!と思った。今考えると当時はLPの収録に準拠した格好だったのだろうと思う。今ではマラ8は1枚がフツーになった。CDの収録時間も74分と初めの頃は言われて、それ以上収録すると再生できない場合があるという噂があったような、ないような。現在では80分くらいは入りそうだけれど。どうなのだろう。
LPの時代もCDの時代も詰め込みは廉価盤の常。収録時間が増えたからといって矢鱈めったらくっ付けるのも品がない。クライバーが存命の時、彼は絶対に詰め込ませなかった。だからベートーヴェンの5番と7番が収録されたディスクが出たのは彼が亡くなってからだった、と思う。ちょっと自信ないケド。
2016年7月28日木曜日
WAM Sym.25 と父
一昨日の夜、防災無線が鳴った。市内の河川に氾濫の危険が出てきたということで、避難準備情報が流れた。ほぼ同時に有線の防災放送が流れるので台所へ。そこに娘も心配で自室から来た。
娘「何があったの?」
妻「(どこかの川が)ゾースイ(増水)してるんだって」
娘「え?ゾースイ?」(眼がキラーンと輝く)
私「お前の考えているゾースイとは違うから!」
そう、ゾースイと聞いて娘は雑炊を思い浮かべたようだ(笑)。
とは言え、自分も娘のことは笑えない。子供の頃、テレビでのニュースで、
「信越線の○○駅と○○駅の間は上下線とも土砂崩れのため、現在フツーです」と言っているのを
「普通」なのになんでニュースで云うんだろう?と不思議がっていた。「普通」ではなくて「不通」ね。
二ホン語、ムズカシイデスネ~!
話はガラリと変わる。
随分と前になるが、仕事帰りに車のラジオをつけたらモーツァルトの交響曲第25番の第4楽章が流れていた。ネヴィル・マリナー/ASMFの演奏。
映画「アマデウス」でこの音楽で知ってはいたけれど。25番を初めて聴いたのは就職した年の夏だった。ワルター/VPOの演奏。
丁度その頃、父が神経難病と診断された。
自分が子供の頃の父は大変に怖かった。何時間も正座させられたり・・・。学生の身分だったから当たり前なのだけれども、一人前の男とは見てもらえなかった。
就職して、これで少しは認めてもらえるだろうか、親孝行できるかなとか思っていた矢先の出来事。
かなりショックだった。あの時の自分はかなり混乱していたように今になって思う。時に轟轟と風吹きすさぶ荒野に一人立っているような、或る時は滝のような雨になすすべなく打たれ続けているようなそんな状態。
そんなどん底な気分のとき、このモーツァルトの25番をそれこそよく聴いた。なんとも言い表しにくいのだが、どこにも持って行きようのない感情をこの短調の調べにのせてどこかに飛ばしてしまいたかったのか?それとも浄化したかったのか。どうにもならない現実のもどかしさをモーツァルトの25番は少し軽くしてくれたと思う。
十数年の闘病の後、父は亡くなった。亡くなる2,3年前から意思の疎通が困難になった。そうこうするうちに膵臓癌が見つかり、結局はそれが原因だった。2001年7月27日。あの日も暑かった。
亡くなる2カ月前、結婚を決めている人を紹介することができた。そのころの父はもうほとんど反応がなかった。でも安心したんじゃないかと思う。最後の親孝行。
あれから15年。自分は父を超えることができただろうか、はなはだ自信がない。
でも何とか家族は守っているよ。親父。
娘「何があったの?」
妻「(どこかの川が)ゾースイ(増水)してるんだって」
娘「え?ゾースイ?」(眼がキラーンと輝く)
私「お前の考えているゾースイとは違うから!」
そう、ゾースイと聞いて娘は雑炊を思い浮かべたようだ(笑)。
とは言え、自分も娘のことは笑えない。子供の頃、テレビでのニュースで、
「信越線の○○駅と○○駅の間は上下線とも土砂崩れのため、現在フツーです」と言っているのを
「普通」なのになんでニュースで云うんだろう?と不思議がっていた。「普通」ではなくて「不通」ね。
二ホン語、ムズカシイデスネ~!
話はガラリと変わる。
随分と前になるが、仕事帰りに車のラジオをつけたらモーツァルトの交響曲第25番の第4楽章が流れていた。ネヴィル・マリナー/ASMFの演奏。
映画「アマデウス」でこの音楽で知ってはいたけれど。25番を初めて聴いたのは就職した年の夏だった。ワルター/VPOの演奏。
丁度その頃、父が神経難病と診断された。
自分が子供の頃の父は大変に怖かった。何時間も正座させられたり・・・。学生の身分だったから当たり前なのだけれども、一人前の男とは見てもらえなかった。
就職して、これで少しは認めてもらえるだろうか、親孝行できるかなとか思っていた矢先の出来事。
かなりショックだった。あの時の自分はかなり混乱していたように今になって思う。時に轟轟と風吹きすさぶ荒野に一人立っているような、或る時は滝のような雨になすすべなく打たれ続けているようなそんな状態。
そんなどん底な気分のとき、このモーツァルトの25番をそれこそよく聴いた。なんとも言い表しにくいのだが、どこにも持って行きようのない感情をこの短調の調べにのせてどこかに飛ばしてしまいたかったのか?それとも浄化したかったのか。どうにもならない現実のもどかしさをモーツァルトの25番は少し軽くしてくれたと思う。
十数年の闘病の後、父は亡くなった。亡くなる2,3年前から意思の疎通が困難になった。そうこうするうちに膵臓癌が見つかり、結局はそれが原因だった。2001年7月27日。あの日も暑かった。
亡くなる2カ月前、結婚を決めている人を紹介することができた。そのころの父はもうほとんど反応がなかった。でも安心したんじゃないかと思う。最後の親孝行。
あれから15年。自分は父を超えることができただろうか、はなはだ自信がない。
でも何とか家族は守っているよ。親父。
2016年7月26日火曜日
爆演系なのか? Carlos Païta AD 8&9
カルロス、と聞いてトシキと答えた君は1000%。ゴーンと答えた君はクルマ好き。クライバーと答えた君は良識ある人。パイタと答えた君はちょっと変わった人だね、きっと。
別にカルロス・トシキが言いたくて、というわけではない。今日、たまたまクナのワーグナーアルバムが聴きたくて、ドヴォルザークとワーグナーのディスクを入れている箱(特に意味はない)の中を探していたら見つけた、パイタのドヴォ8と9番。いつ買ったのかも覚えていない。聴いた覚えもない。でも買ったんだろなー。モノは試し、どんなもんかと聴いてみた。
で、感想を一言でいうなら、「判っかり易ぅ~」だ。デカい音はデカい。速いところは速い。単純なんだ、この人は。9番終楽章のティンパニの強打が矢鱈と大きい。通常の3倍の大きさだ。コーダ、デミヌェンドで儚く消えるように終わるところでは通常の3倍伸ばす。でも、どうしてもそこに必要性を感じない。何故3倍大きくするのか?3倍長く伸ばすのか?単にそのほうがカッコイイから、か?要は自己主張が強いのだ。エゴイスティックでナルシスト。オケをドライヴすることが第一義、そんな感じ。
聴いていて気になるのは音楽に対する感興が薄い。非常に薄い。食べ終わり間近の素麺のツユくらい薄い。あまり曲そのものには興味ないらしい。
まあ、爆演という括りでよいのかも。どこかで許光俊がこの人のワーグナーとR.シュトラウスを持ち上げていたように記憶している。聴いたことがないのでなんとも言えないが、このドヴォを聴いて、じゃあワーグナーもという気にはならない。ファンの方には申し訳ないが致し方なし。許してほしい。
とは言え、15年前の「と」盤探しに没頭していた自分だったらスゴイと思うのかはわからない。
今日は、直江津の花火大会なのだがこの夏一番の土砂降り。梅雨が明けたというのに、だ。多分中止(もしくは延期)だろうと思う。今朝は福祉施設での殺人事件のニュースで目が覚めた。亡くなられた方には心よりご冥福をお祈り申し上げたい。しかし、犯人の青年に何があったのだろう?その心の闇が怖い。
別にカルロス・トシキが言いたくて、というわけではない。今日、たまたまクナのワーグナーアルバムが聴きたくて、ドヴォルザークとワーグナーのディスクを入れている箱(特に意味はない)の中を探していたら見つけた、パイタのドヴォ8と9番。いつ買ったのかも覚えていない。聴いた覚えもない。でも買ったんだろなー。モノは試し、どんなもんかと聴いてみた。
で、感想を一言でいうなら、「判っかり易ぅ~」だ。デカい音はデカい。速いところは速い。単純なんだ、この人は。9番終楽章のティンパニの強打が矢鱈と大きい。通常の3倍の大きさだ。コーダ、デミヌェンドで儚く消えるように終わるところでは通常の3倍伸ばす。でも、どうしてもそこに必要性を感じない。何故3倍大きくするのか?3倍長く伸ばすのか?単にそのほうがカッコイイから、か?要は自己主張が強いのだ。エゴイスティックでナルシスト。オケをドライヴすることが第一義、そんな感じ。
聴いていて気になるのは音楽に対する感興が薄い。非常に薄い。食べ終わり間近の素麺のツユくらい薄い。あまり曲そのものには興味ないらしい。
まあ、爆演という括りでよいのかも。どこかで許光俊がこの人のワーグナーとR.シュトラウスを持ち上げていたように記憶している。聴いたことがないのでなんとも言えないが、このドヴォを聴いて、じゃあワーグナーもという気にはならない。ファンの方には申し訳ないが致し方なし。許してほしい。
とは言え、15年前の「と」盤探しに没頭していた自分だったらスゴイと思うのかはわからない。
今日は、直江津の花火大会なのだがこの夏一番の土砂降り。梅雨が明けたというのに、だ。多分中止(もしくは延期)だろうと思う。今朝は福祉施設での殺人事件のニュースで目が覚めた。亡くなられた方には心よりご冥福をお祈り申し上げたい。しかし、犯人の青年に何があったのだろう?その心の闇が怖い。
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Lodia LO-CD 789 |
2016年7月23日土曜日
三銃士、再結集! Ansermet / OSR Stravinsky 春の祭典
2週間の間を置いて再集結した三銃士。今回は富山県黒部はうな君邸に参上した。
しかし、間隔が2週間とはこれまでにないハイペース。七味はこのところ夏バテ気味。黒部まではシンドイなぁと思っていたところに助け舟。ここは素直に甘えさせて頂きました。kazuさん運転ありがとうございました。
うな君もありがとうございました。皆さまに宜しく。お盆はコッチに来るの?かな。
うなぎの寝床と称される細長い部屋。一聴、気品溢れる音。高い天井から音が降り注ぐような感覚に息を呑んだ。
システムに合わないといっていたクレンペラーのモーツァルトも良かった。ヤルヴィのマラ8も上から下までスーッと伸びていて神々しい響き。マゼール/CLEのハルサイもシャープ。七味の好みからいうと、も少し低音の下支えがあっても良いのじゃないか?低音があったほうが高音の美しさがより一層際立つんではないか、と思った。
ハルサイを聴きながら、それぞれが好きな演奏者を挙げていったところ、Kazuさんはアバド/LSOとシャイー/CLE。うな君はマゼール/CLE、七味はアンセルメ/OSRとバラバラ。Kazuさんの好みは良く歌い機能性に富んだ演奏だろうか。うな君は変態演奏がお好き(笑)。七味は古風、というよりヨボヨボの爺さんが好きということか。というのは冗談としても、アンセルメの演奏を侮ってはいけない。
確かに演奏は現代の水準に照らしてみてもどうにも聴き劣りしてしまう。リズムの処理は甘め、と思う。ただ、ブーレーズ/CLE(CBS)以降のリズム重視とも思える演奏の数々を聴くにつれ、アンセルメのハルサイが好ましく聴こえてくるから不思議。リズムが決まらないせいで結果的に旋律に注意が向いてしまうのかもしれないし、そうではないのかも。とはいえ、それほど計算高い(でも数式は得意!)指揮者ではないだろう。オケも指揮者も大健闘。ときおり大きなタメを作るあたりも時代を感じさせる。結果的に現代音楽だったということを強く印象付けられる。
録音はやっぱり古い。でも上手い録音だと思う。オンマイク気味のいつものデッカ録音。混濁もなく聴きにくさは感じない。合わせて聴いた「ローマの松」もグッド。
しかし、間隔が2週間とはこれまでにないハイペース。七味はこのところ夏バテ気味。黒部まではシンドイなぁと思っていたところに助け舟。ここは素直に甘えさせて頂きました。kazuさん運転ありがとうございました。
うな君もありがとうございました。皆さまに宜しく。お盆はコッチに来るの?かな。
うなぎの寝床と称される細長い部屋。一聴、気品溢れる音。高い天井から音が降り注ぐような感覚に息を呑んだ。
システムに合わないといっていたクレンペラーのモーツァルトも良かった。ヤルヴィのマラ8も上から下までスーッと伸びていて神々しい響き。マゼール/CLEのハルサイもシャープ。七味の好みからいうと、も少し低音の下支えがあっても良いのじゃないか?低音があったほうが高音の美しさがより一層際立つんではないか、と思った。
ハルサイを聴きながら、それぞれが好きな演奏者を挙げていったところ、Kazuさんはアバド/LSOとシャイー/CLE。うな君はマゼール/CLE、七味はアンセルメ/OSRとバラバラ。Kazuさんの好みは良く歌い機能性に富んだ演奏だろうか。うな君は変態演奏がお好き(笑)。七味は古風、というよりヨボヨボの爺さんが好きということか。というのは冗談としても、アンセルメの演奏を侮ってはいけない。
確かに演奏は現代の水準に照らしてみてもどうにも聴き劣りしてしまう。リズムの処理は甘め、と思う。ただ、ブーレーズ/CLE(CBS)以降のリズム重視とも思える演奏の数々を聴くにつれ、アンセルメのハルサイが好ましく聴こえてくるから不思議。リズムが決まらないせいで結果的に旋律に注意が向いてしまうのかもしれないし、そうではないのかも。とはいえ、それほど計算高い(でも数式は得意!)指揮者ではないだろう。オケも指揮者も大健闘。ときおり大きなタメを作るあたりも時代を感じさせる。結果的に現代音楽だったということを強く印象付けられる。
録音はやっぱり古い。でも上手い録音だと思う。オンマイク気味のいつものデッカ録音。混濁もなく聴きにくさは感じない。合わせて聴いた「ローマの松」もグッド。
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DECCA UCCD-3857 |
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